一昨年、被害者の実名・人となり報道、本当にやめてよいの? ~川崎市少年殺害事件からいち主婦(?)の考えた被害者報道の意義~というブログを書きました。
事件・事故の被害者の実名、顔写真や人となりが報道によって“晒される”のはひどすぎる、という世間の声に対する疑問を記したものです。
今でもその疑問は変わらないばかりか、ある事件をきっかけに、より強く実名報道の意義について考えるようになりました。
先週の1月26日で発生から半年を迎えた、相模原市の障害者施設殺傷事件です。
特に相模原の事件では、容疑者の「重度の障害者を殺害するのは日本のため」という主張や精神科病院への措置入院歴というセンセーショナルな事情があったことから、容疑者側ばかりがクローズアップされて語られた印象があります。
ネットでは、容疑者の主張に同調する書き込みも見られました。
ふつうの殺人事件であれば、犠牲者の実名・顔写真や人となり、遺族のインタビューが報道されたはずです。
わたしたちは、これらを見聞きして犠牲者・遺族への同情の念を抱き、周囲の人と話し合ったりしたでしょう。
でも、匿名報道であった相模原の事件では、そういうことができませんでした。
このことは、わたしたちがこの事件をどう記憶するかについて、何らかの影響を及ぼしているのではないでしょうか。
匿名を希望する遺族のかたも多いでしょうから、相模原の事件で匿名報道がされたこと自体を批判するつもりは全くありません。
ただ、次の悲しい事件・事故が起こってしまう前に、実名報道の意義についてみんなで考える機会があってほしいなと思うのです。
(参考)
元職員2人、匿名19人の生きた証し訪ねる 相模原殺傷:朝日新聞デジタル