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テレビニュースは終わらない(著:金平茂紀 集英社新書 2007)レビュー

テレビニュースは終わらない (集英社新書) 新書 – 2007/7/22 金平 茂紀 (著)*1のレビューです。

大学生時代に金平先生の授業を受ける機会があり、その頃一度読んだことがありました。
最近断捨離をしていたらこの本が発掘されて、懐かしくなって再読。せっかくなのでレビューを書くことにしました。
お世話になった金平先生には失礼な物言いかもしれませんが……。

本書の限界 メディア不信に対して本当に向き合っているか?

イラク戦争報道を中心テーマにした本(あとがき・p.215)です。

カバーの紹介文では、
「テレビ報道をとりまく環境は、大きく変化しつつある。マスメディアに対する人々の意識も変わってきている。メディア不信なども叫ばれるなかで、テレビ報道はどうあるべきか。」
とあります。
しかし、先生自身もあとがき(p.217)で指摘されている、「メディア不信」の理由のひとつである「捏造」「やらせ」「過剰演出」などの問題については全く論じられていません。
また、犯罪や災害の被害者に対する実名報道・人となり報道がプライバシーの侵害ではないかという問題、そもそも取材自体が(たとえメディアスクラムと呼ばれるような規模に至っていなくても)迷惑行為なのではないかという問題については、触れられてすらいません。

なので、メディア不信に対する現場からの論考・提言を期待して読むと、肩透かしを食らいます。

また、マスメディアは時の政権に対する「批判力」を保持していなければならないという、先生のおっしゃるところの「戦後ジャーナリズム」(p.159)の原則を素朴に信じておられるのも印象的です。
若者がマスメディアを「マスゴミ」と呼んで嫌う一因は、マスメディアが時に客観的・科学的な視点を無視してまで無用に国を批判している(と思われている)ところにあるとわたしは思っています。たとえば、子宮頸がんワクチンの「被害」について大々的に報道した結果、積極的勧奨が中止されてしまったケースなどです。

日本のマスメディアが国のプロパガンダ機関化しつつある背景と具体例

とはいえ、もちろんマスメディアが国のプロパガンダ機関化することは絶対に避けなければなりません。

本書は、太平洋戦争の反省を踏まえて「プロパガンダから報道へ」というベクトルを貫いていた「戦後ジャーナリズム」が、1995年の地下鉄サリン事件、2001年のアメリカの同時多発テロ事件、2002年の北朝鮮による邦人拉致認定という「切断点」を経て否定されつつあるというところと指摘しています(第3章 荒野から - 1 マスメディアの立ち位置の変化 - 近年の三つの切断点)。

地下鉄サリン事件以降、私たちの住む世界は、地下鉄に代表されるような『公共区間の安全』に常に気を配らなくてはならない世界へと変質したのであり、9・11以降、テロリストという言葉が世界共通の『敵』概念として、あまねく流通する世界へとシフトしたのだと言えるだろう。同様に、9・17(筆者注:2002年の北朝鮮による邦人拉致認定のこと)以降、北朝鮮という国家が『敵』概念としてあまねく流通することとなった。(中略)『セキュリティ化』の要請とは、つまるところ安全をすべてに最優先させる、あらゆる論議を停止・保留して、安全を確保することで一致しようという『全体化』の力が働くことを意味する。何しろ安全を確保することが最優先なのだから。それがいつの間にか、国家の発する『安全』確保要請にからめとられる。そこから『非常時なのだから、メディアは(政府の)言うことを聞け』という要請までは、ほんのわずかな距離しかない」(pp.158-159)

そして、マスメディアが国のプロパガンダ機関化しつつある具体例が、第1章に詳述されているイラク戦争報道です。

「日本のイラク戦争報道は、アメリカの報道に他国とは比較にならないほど引っ張られ」(第1章 現代の戦争報道 - 3 日本メディアのイラク戦争報道 - 自前の戦況報道の放棄 p.63)、イラク市民の被害はなかったこととされました。

そして、同章3 - 邦人人質事件「自己責任論の噴出」/外務省とパウエル発言の落差」で指摘されているように、2004年4月に起きたイラク邦人人質事件では、政府の閣僚や要人による人質に対する批判・非難、外務省の竹内行夫事務次官(当時)による「自己責任の原則」発言(「(日本人の)保護に限界があるのは当然だ。自己責任の原則を自覚してほしい」(p.71))が無批判に報じられた結果、「人質邦人らの家族には、事件発生直後から、さまざまな中傷・いやがらせ、プライバシー侵害などが相次いだ」(p.72)のです。

「在東京の外国メディア発の多くの記事は、いわゆる『自己責任論』が醸成される日本の空気に対する奇異の念を隠していない。(中略)『ニューヨーク・タイムズ』紙も『3人の人質はお上(Okami)にたてついたため罪人扱いされた』(2004年4月23日付)と報じている。アメリカの新聞に、江戸時代的な『お上』という用語を使われる事態を私たちはどう受け止めるべきか」(pp.74-75)

「セキュリティ化」の要請は昨今のコロナ禍を経てますます強まっているように思います。
マスメディアが(あくまで客観的・科学的に)国の姿勢を検証・批判する姿勢は今こそ必要とされているのではないでしょうか。

ブクログにも投稿しております。 https://booklog.jp/users/yulinyuletide/archives/1/4087204006