試験勉強をしていて、まやかしかもしれないですが、何かが見えてきた気がします。何の脈絡もなく取っていた色々な科目で教わったことが繋がり始めたような気がするのです。
忘れたら嫌なので、ひとさまに見せるような文章ではないことを自覚しながらも、メモ書きしておきます。興奮状態で文章を書いてしまうのはいけないことだとわかっているのですが。先生方の言っていることをゆがめている部分も多いかもしれませんが… ほんとメモ書きなんで(汗 若気の至りとしてお許しください。。。
さっき、少年法と児童法についての授業のノートを見返していました。児童の権利条約には子どもを親や国の保護という名目の権力から解放しようというイデオロギーが見られるのだそうです。しかし、子どもの権利(right、自由権)を考えるとき、子どもは本当に自由であるのか、もしくは、親と子を平等と考えていいのか、という疑問が湧きます。世界の怖さについて知らないことが多い子どもが無限の選択権を与えられても、結局悪者に利用されたりして(かつての日本の戦時教育「子どももお国のために奉仕しろ」を思い浮かべてみてください。)本当の意味での自由を手放すことになりかねません。
そして、大人も、本当に自由なのでしょうか? コモンズの悲劇や囚人のジレンマに見られるように、人間は合理的であろうとするがゆえに自分の利益を手放してしまうことがあるのです。
いろんな授業で、人間の合理性の限界、市場の限界、政府の限界について教わってきました。それを解決の方向に向けるが、市民同士の信頼と規範に基づいたネットワーク(social capitalという専門用語を使っていました)や、地域コミュニティであると相関社会科学の授業で教わりました。
また、子どもを本当に自由にするのも、法ではなく、有機的で非対称的な人間関係(親子関係、教師-生徒関係)による保護だと教わりました。
人間は合理的だ、自由だ、平等だという観念がもたらす弊害は、人間関係によって克服されえるのだということに、先生方のおっしゃることの共通点があるのかな、と思ったのでした。
ごめんなさい自分生意気ですね…。