気分がくしゃくしゃだったので、久しぶりに授業に出てみることにしました。
3週間ぶりに出た授業。先生がおっしゃった今日の授業のお題は、
ロール・プレイング・ワークショップ、
<類人猿になりきれ>
「類人猿ですから言葉は使えません」
「あ、でも、鳴き声を上げるのは大いにやってください」
「祈りと歌を欠かさないでください」
「恥も外聞も捨ててください」(7回くらい言われた)
そう、わたしたちは猿人アウストラロピテクス・アフリカーヌス。
工学部の建物のなかを、ちょっとへっぴり腰でうろうろする10人ほどの学生たち。
周りは普通の研究室が並んでいるので、白衣を着た院生か誰かに「なんだこいつら」という目で見られたり見られなかったり。
仕方ないので「キー」とか「ウガー」とか叫んでみたら、ちょっとすっきりしました。
* * *
・・・・・・えー、“言語の意義を考える”という至極真面目なワークショップでしたw
言葉を持たない猿人になりきってコミュニケーションを試みることで、言葉なしに伝達することのやりにくさを実感するというもの。
内容は、ここで詳しく書くのは自粛します。来年情報学環でこの授業をとる人にネタバレになってしまうので。ざんねん。
一応感想だけ簡単に書いておきますが。
言語を使わないと、第三者のこと(特に、自分は知っているけれど話し相手は知らないもののこと)を伝えることは非常に難しいんだということを実感しました。
「ここではないどこか」にいる「あなたの知らない誰か」の状況を伝えるには、言語が不可欠。ジェスチャーでは限界がありました。
言語が想像力の要になっているんですね。
このワークショップを応用するのも面白そうだなと思います。
たとえば、
言語のない時代→言語の発達した時代→活版印刷ができた時代→インターネットが普及した現代
と時代を経ることで、伝達できる内容や相手がどんどん広まっています。
「活版印刷で、文脈から切り離されたコミュニケーションが可能になった」という言及は授業でもありましたが、インターネットが現れたことで、その状況がよりドラスティックに押し進められたと言えます。
インターネットによって、言語の意義がどう変わったか。あるいは、知の共有方法がどう変わったか。
こんなようなことを考えてみたいです。
友人は、このワークショップから
自閉症の子どもたちと言語の関係を考えたそうです。
そういえば類人猿とtheory of mindみたいな話があったっけ。
情報学環は学部が違う人がいろいろ集まっているので、ひとつの授業からもみんな連想するものが違っていて、面白いです(^-^*
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明日からまた官庁訪問が再開します。笑顔で、頑張ります。