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Pokémon GOのAR写真とか。アニメの感想とか。たまに難しいことも。不思議ちゃんの新婚生活13年目@東京をまったり記録。

言葉を失ってみる

気分がくしゃくしゃだったので、久しぶりに授業に出てみることにしました。

3週間ぶりに出た授業。先生がおっしゃった今日の授業のお題は、

ロール・プレイング・ワークショップ、

類人猿になりきれ

\(^o^)/

「類人猿ですから言葉は使えません」

「あ、でも、鳴き声を上げるのは大いにやってください」

「祈りと歌を欠かさないでください」

恥も外聞も捨ててください」(7回くらい言われた)

そう、わたしたちは猿人アウストラロピテクス・アフリカーヌス。

工学部の建物のなかを、ちょっとへっぴり腰でうろうろする10人ほどの学生たち。

周りは普通の研究室が並んでいるので、白衣を着た院生か誰かに「なんだこいつら」という目で見られたり見られなかったり。

仕方ないので「キー」とか「ウガー」とか叫んでみたら、ちょっとすっきりしました。

 * * *

・・・・・・えー、“言語の意義を考える”という至極真面目なワークショップでしたw

言葉を持たない猿人になりきってコミュニケーションを試みることで、言葉なしに伝達することのやりにくさを実感するというもの。

内容は、ここで詳しく書くのは自粛します。来年情報学環でこの授業をとる人にネタバレになってしまうので。ざんねん。

一応感想だけ簡単に書いておきますが。

言語を使わないと、第三者のこと(特に、自分は知っているけれど話し相手は知らないもののこと)を伝えることは非常に難しいんだということを実感しました。

「ここではないどこか」にいる「あなたの知らない誰か」の状況を伝えるには、言語が不可欠。ジェスチャーでは限界がありました。

言語が想像力の要になっているんですね。

このワークショップを応用するのも面白そうだなと思います。

たとえば、

言語のない時代→言語の発達した時代→活版印刷ができた時代→インターネットが普及した現代

と時代を経ることで、伝達できる内容や相手がどんどん広まっています。

活版印刷で、文脈から切り離されたコミュニケーションが可能になった」という言及は授業でもありましたが、インターネットが現れたことで、その状況がよりドラスティックに押し進められたと言えます。

インターネットによって、言語の意義がどう変わったか。あるいは、知の共有方法がどう変わったか。

こんなようなことを考えてみたいです。

友人は、このワークショップから

自閉症の子どもたちと言語の関係を考えたそうです。

そういえば類人猿とtheory of mindみたいな話があったっけ。

情報学環は学部が違う人がいろいろ集まっているので、ひとつの授業からもみんな連想するものが違っていて、面白いです(^-^*

 * * *

明日からまた官庁訪問が再開します。笑顔で、頑張ります。