情報学環の自主ゼミ、「メディア論を読む!」に参加してきました。
随分と久しぶりに文献を読むっていう作業をした気がします。しかも社会学の。
さすが”論文”。
試験勉強中も判決文とか法学の教科書とか参考書とかは読んでいましたが、そんなのとは手ごたえが違いますね!
しかも、「メディアを語る」って、テレビを語るとかケータイを語るといった研究と比べても、抽象的。
某公務員試験の性格テストで
「抽象的な思考は得意だ はい いいえ」
っていう質問がありましたが、
今は「いいえ」にマークせざるをえませんw
抽象的な思考の難しさを痛感しております。
特に美学専攻のゼミ生さんの話には、視点の違いに刺激を受けました。美学なんて縁なかったなー・・・
読んだのは、吉見俊哉編『メディア・スタディーズ』(serica archives)から
北田暁大「ヴァルター・ベンヤミン -反メディア論的省察」
っていう論文。
メディア論ゼミなのに反メディア論から入るのにびっくりしましたが、
マクルーハンのメディア論(「メディアはメッセージ」)は学環の授業に出てれば何度も耳にしてるので、いきなりマクルーハン批判から入るのも、ひとつの形としてよかったと思います。
ただ、ゼミから帰ってきても、論文について疑問は残っています。(なにせ難しい論文だし…)
<既存のマクルーハン的メディア論には
「メディアを語っているつもりでいながら、いつの間にかメディアを透明にし消し去ってしまう」
という限界がある。
だが、ベンヤミンの論じ方ならマクルーハン的メディア論の限界を突破できる。>
っていうのが北田先生の主張だというふうにわたしはこの文献を読んでいます。
でも、
マクルーハン的メディア論の限界がメディア考察にどんな制約を加えてしまうのか、
ベンヤミンの論じ方がマクルーハン的メディア論とは結局どう違うのか、
っていう肝心な部分を、わたしはまだとらえきれないんです。腑に落ちない疑問。
これをどうにかするには、
ベンヤミンの論文そのものを読むか、北田先生が「反メディア論」を語っている別の文献があればそれを読むか、
しないとダメなのかな。
わたしがメディア論に関心を持ったのには、メディア論の観点から政策の成功/不成功を読み解きたいっていう欲求があります。
政策というものはメディアに媒介されて市民に届くわけですから。
(なので某公務員試験と関わらないわけじゃないんですよー 遊んでるんじゃないんだよー笑)
(ここで言うメディアっていうのは、広義のメディア。
「マスメディアでどう報じられるか」だけじゃなく「法令というメディアにどう書き記されるか」とかも考察対象に含められると思います)
(えてして官僚は「メディアの使い方が下手」だと言われます。いい加減にその状況を打開しないと、官僚組織自体だけでなく国民が不幸だと思うんですよ。自分がその打破の一端を担えればいいなと)
もし仮にわたしがマクルーハン的な「メディアはメッセージ」のメディア論の考え方を既にそれなりに身につけているとしたら(どう考えてもまだ充分に身についてないとは思いますがね)
新しい<反メディア論>的なメディアに対する見方も身につけておきたい。それで、政策をみるときの自分の視野を広げておきたいなーって思うのです。
なので、暇を見つけて、ベンヤミンの文献を読んでみますかね…。文庫本で60ページらしいです。字、ちっちゃかったけどw
しかし北田先生、授業では色んな素材を使ってわかりやすく説明しようとしてくれてるのに、
論文になると異常なわかりにくさを誇るのはどういうことなんでしょうかね。
きちんとメディア論研究してる人だったらすらすら読めるのかもしれません。でも、さすがにこの文章は万人に分かり辛い部類に入るんじゃないか?
とても一人じゃ読めない。
ゼミを企画してくれたこーたりくんに感謝。