昨日ツイッターで流行っていたこの漫画「ふつうの友人」について。
作者のハリボム氏が垢消ししてしまったが、幸いにもこのついっぷるのページだけ残っていたので、ご紹介する。
「ふつうの友人」 |ハリボムさんのついっぷるトレンド画像:
http://tr.twipple.jp/p/ea/eaa696.html
このかたの気持ちはよくわかる。わたしも「ふつうの友人」と過ごすのはとても辛い。
でも、共感する一方で、なんとなく不快に感じてしまった。
多くのひとがツイートしているように、この人が「ふつうの友人」を上から目線で見下していることが伝わってくるからだと思う。
このセリフを思い出した。漫画『ローゼンメイデン』1巻TALE5で、バイト先の店長(ちなみに高卒)が主人公のジュン(中学・高校と引きこもりだったため大検をとって大学に通っている。それが履歴書で店長にバレてしまっている)を馬鹿にして言うセリフ。
「お前って アレだろ
俺の事 仕事しねー馬鹿だとか低学歴とか見下してるだろ? わかるんだぜそーゆーの 目ェ見りゃわかる
回り中ぜーんぶ見下して自分高いとこに置いてっと 自分のダメさ誤魔化せて安心できんだろ?
どーせここは俺の場所じゃねーとか中学生みたいな事考えてんだろ そーゆー成長しないヤツだから世の中つまんなくしか感じねーの」
* * *
わたしの考える「ふつうの人」像はこんな感じ。
1.「他人と自分は同じ価値観を持っていていて、その価値観は正しい」と思い込みがちで、その思い込みを修正するきっかけがない。
2.他人と話すのがあまり苦痛でなく、いわゆるコミュ障・メンヘラの人たちがなぜ「他人とうまくしゃべれない」と言うのかわからない。努力不足のように感じてしまう。
3.「他人としゃべること」に限らず、いわゆるコミュ障・メンヘラの人たちがふつうにできないことがなぜふつうにできないかわからない。
たとえば、流行りものをチェックすること(ハリボム氏の漫画のパターン1)。子どもを可愛い・欲しいと思うこと(パターン2)。体力(パターン10)。本心を殺して空気を読むこと(パターン11)。
だから、今のこの世の中は、ふつうに人としゃべれて、ふつうにそれなりの家事やら運動やらができる人を念頭に置いて作られている。
就職ではコミュニケーション能力が最重要視され、いわゆるコミュ障・メンヘラの人は就職して自活することさえ一筋縄にはいかない。
それでもなんとか就活に通っていざ新入社員になってみたらどうか。今まで必死で人に追いつくために勉強してきた専門知識の有無は全く問われない。その代わり、空気が読めること、手際の良さ、体力はみんな備えているのが前提で動かれてしまい、結局のところ「使えないやつ」と認定されてしまう。
テレビや雑誌はみんな「ふつうの人」向けにスイーツやらファッションやらの流行りものを載せている。
政治の話題は一般的なおしゃべりでするのはタブーとされている。
もちろん、今のこの世の中は、ふつうのことがふつうにできない人にとって優しくあるべきだという価値観も持っている。そうでなければ点字ブロックなんて設置されていないはずだし、パズドラは色覚障害対応なんてしないだろう。
でもそれは、主に身体障害者(たとえば弱視、目が見えないなど)の人たちに対してだけなのではないかと感じる。
「うまく人としゃべれない」ということは、弱視や色覚障害などの身体障害たちと違って、努力不足だと思われているんだと感じる。
それはまあ一理なくもない。確かに、身体的な障害とは違って、努力で何とか克服できる面もあるだろうから。
でも、コミュ障の人がふつうに人としゃべるには、「ふつうの人」と比べて圧倒的な努力と我慢が必要とされる。なんで私だけここまでやらなきゃいけないの、って理不尽さを感じてしまうほどには。
そして、「ふつうの人」は、その理不尽さを思いやってくれない。「ふつうの人」にはその努力を想像することができないのだ。
これは想像にすぎないが、このハリボム氏というかたは、その努力に疲れ切ってしまったんだろう。そして、無理をして「ふつうの人」に合わせることはないということに、最近ようやく気付くことができた。
ニュートラルに考えれば、「ふつうの人」とハリボム氏のどちらが優れている、どちらが正しい、どちらが誤っているというわけではない。
でも、ハリボム氏は、あまりにも疲れ切ってしまったせいで、「回り中ぜーんぶ見下して自分高いとこに置いてっと 自分のダメさ誤魔化せて安心」することでようやく自分を保てるような状態なのだと思う。
『ローゼンメイデン』で、色々と試練を乗り越えたジュンは、こんな境地に至る(4巻TALE25)。
「世界は僕に手を差しのべない でも居場所なんてそんなものかもしれない
ただ少しでも 自分を手が伸ばしたなら もしかしたら――」
「何もないと思った世界に 可能性と分岐を失った世界に 目をこらせば無限の選択肢が確かにあった 手をのばしさえすれば」
「ふつうの人」に無理に合わせる必要なんて本当はどこにもない(実質的に強いられているように感じることはとても多いけれど)。
でも、
「ふつうの人」が劣っていて、コミュ障・メンヘラの自分のほうが実は優れている特別な人間なんだ――
ということは決してない。
価値観、見える世界、与えられた能力がそれぞれ少しずつ違うだけだ。
コミュ障だろうがメンヘラだろうが「ふつうの人」だろうが、それぞれのフィールドでそれぞれの形で頑張って生きていくしかないし、みんな何かしら頑張っているんだと思う。『ローゼンメイデン』のジュンしかり、店長しかりだ。
たとえば、店長のような「ふつうの人」にだって、大多数の人が持っている能力しか持ち合わせていないがゆえに競争倍率の高いところで競わなければならない、とか、いろんな苦労があるだろう。
かつて自分が「ふつうの人」から思いやられず辛かったことを思い起こして、自分も「ふつうの人」の隠れた努力を思いやれるような、少なくともわたしはそんな人間でありたい。*2
(……とはいえ、コミュニケーション能力や体力があることが前提の世の中になってしまっていることには耐え難い苦痛と理不尽さを感じるので、なんとか世の中変えられないものかとわたしは思っているが。)
*1
例として、ついっぷるのコメント欄に掲載されていたこのツイートなど。
https://twitter.com/otawabell/status/580195367351754752
“@outofawindow: 「ふつうの友人」 http://t.co/K2T7MT4EjL” この漫画すごい見ててイライラするのなんでかなと思ったけど、学生時代からの友人(笑)を完全に見下してるからかなって
*2
本段落は14時半頃に大幅に追記・修正。
元はこちら↓
「ふつうの人」に無理に合わせる必要なんてどこにもない。
でも、「ふつうの人」が劣っていて、コミュ障・メンヘラの自分のほうが実は優れている特別な人間なんだ――ということは決してない。価値観、見える世界、与えられた能力がそれぞれ少しずつ違うだけだ。
コミュ障だろうがメンヘラだろうが「ふつうの人」だろうが、それぞれのフィールドでそれぞれの形で頑張って生きていくしかないし、みんな何かしら頑張っているんだと思う。たとえば、「ふつうの人」は大多数の人が持っている能力しか持ち合わせていないがゆえに競争倍率の高いところで競わなければならない、とかね。