ちょっと遅くなっちゃったんですが、
土曜日に行ってきた市民ビデオフォーラムのことについて書こうかと。
情報学環のメディア論ゼミ・ジャーナリズムゼミのメーリングリストで紹介があったイベントなので、
関心のある方がいれば、参考にしていただけると幸いです◎
メインのゲストは津野敬子さんというビデオジャーナリストの方でしたが、
パネルディスカッションには「時をかける少女」(1983年)の監督もいらしてて、興奮してるお客さんが多かったです。
(「時をかける少女」、わたしはまだ見たことないのです… 古いほうも最近のアニメのほうも。でも、一度見てみたい有名邦画のひとつ!)
●“市民ビデオ”の意義
“市民ビデオ”っていう養護、初めて聞いたんですが、
「普段ビデオをもたない人の作ったビデオ作品」っていう意味らしいです。
(つまり、ビクターが売っているような家庭用ビデオカメラでアマチュアの人が撮った作品ってことなのでしょう)
市民ビデオフォーラムでは、ビクターが30年間続けている「東京ビデオフェスティバル」に出品された多くの“市民ビデオ”が流され、“市民ビデオ”の魅力が語られていました。
講演・パネルディスカッションで登壇者の方々が語っていたことをまとめると、
“市民ビデオ”にはどうやら次のような魅力があるみたいです。
(こなれてない日本語で申し訳ないんです。専ら自分の日本語能力の低さのせいです[E:sweat02])
1)ビデオカメラを持った人に、自分たちの社会を変えようとするきっかけを与えること
2)日常の感覚によって制作されているため、本当の人間らしさが表現されていること
3)「エゴイズム」に対する批判なしにドキュメンタリーが制作される(可能性がある)こと
1)ビデオカメラを持った人に、自分たちの社会を変えようとするきっかけを与えること
例に挙げられていたのは、"Bullets in the Hood"という作品など。
Bullets〜はアメリカ・ニューヨークのゲットーに生きる青年が作った、銃社会の問題を取り上げたドキュメンタリーです。彼は、些細な喧嘩から銃で友だちが殺されたことをきっかけにビデオカメラを持ちました。
初めはひととしゃべるのも苦手そうだった青年が、撮影を続けるうちに、自分の言葉で銃社会の問題点を語れるようになっていったのだそうです。
2)日常の感覚によって制作されているため、本当の人間らしさが表現されていること
パネルディスカッションでは、市民が自分の身近な問題を取り上げて作品にすることの重要性が繰り返し述べられていました。
プロの報道機関は不幸なニュース、「人が犬を噛んだ」ような異常なニュースしか報道しようとしていない。
でも、本当は「犬が人を噛んだ」だけでも、向こう三軒両隣の日常にとっては大事件のはずだ。
そのような小さな事件から大きな社会の問題点が見えてきたり、人間らしさが浮かび上がったりするのではないか、
とのことでした。
3)「エゴイズム」に対する批判なしにドキュメンタリーが制作される(可能性がある)こと
例に挙げられていたのは、「漢字テストのふしぎ」。
「漢字表記の基準のあいまいさ」を問題視して、学校の先生や行政の声を撮っている作品です。
パネルディスカッションで羽仁進さんが指摘しておられたことなんですが、この作品は「先生や行政を悪者として描いてはいない」のだそうです。
プロが作る報道番組は、必ず誰かのエゴイズムを批判している。
でも、市民ビデオはそのような批判をせずに、誰もがエゴイズムを持っていることを認めた作品が作れるのではないか、
といった趣旨のことをおっしゃっていたと思います。
●ビデオを見せる場所って?
このフォーラムではあまり取り上げられていなかったトピックなんですが。
日本ではイマイチ「普通の人でもドキュメンタリーを作れること」、「普通の人にも自分の作ったドキュメンタリーを人に見せる方法があること」、さらには「普通の人の作ったドキュメンタリーを視聴できること」が知られてないような気がします。
自分も、情報学環でドキュメンタリー制作の授業があるまで知らなかったですし。
でも一方で、有名な長野の美須々ヶ丘高校の放送部のように、メディア教育が盛んな学校も多くあるみたいです。
何らかの形で「普通の人でも情報発信ができる」ことを体験した人が、徐々に、その輪を広げていくことになるんでしょうか。
(フォーラムのお客さんにも、高校の放送部の顧問の方が、部長を連れていらしていました。部長=高校生はシンポジウムが初体験だったみたいで「話が難しい…!」と呟いてました。高校の頃からいろんな大学生・大人と関われる場所に来てたら、きっとこの子の人生面白くなるんだろうなあ。)
今は、youtubeとかニコニコ動画とか、動画をめちゃくちゃ多くの人に見てもらえる可能性のあるプラットフォームがあります。
そういうサイトを使って、今まで市民ジャーナリズムとかに興味のなかった人にも“市民ビデオ”を届けてみることってできないのかなあ、
とぼんやり思っています。
ちなみに、youtubeで"Bullets in the Hood"は見つけました。あんまりコメント付いてないけど・・・
●CyberCar
津野さんはアメリカでCyberCarという大型スクリーンバスを使って、全米を回るという活動をなされているそうです。ダウンタウンでバスを止め、住民を集めて番組を見せ、その場で意見交換…ということになる様子。"Bullets in the Hood"もCybercarで放映がされたそうです。
日本でも、ドキュメンタリー映画の小規模な上映会はちょくちょく行われてます。監督と観客の座談会がセットになってたりして、すごく雰囲気が良かったりするの。この前の「ひめゆり」みたいな。
でも、当たり前といえば当たり前ですが屋内で行われているので、
もともと関心があって見にきた人しか来ないんですよね。
Cybercarみたいに屋外で上映しちゃえば、多様な人を取り込めるんじゃないかなーと思います。
でも日本のまちとニューヨークのダウンタウンじゃ状況が違いますよね。日本の都市に、屋外で映画の上映会ができるような空地ってないような気がします。・・・ホコ天を使うとか?
●ビクター万歳!!
びっくりなのは、このイベントをビクターっていう一企業がやっていること。
別に、ビクターのビデオを売りつけられたりはしないんですよ。パンフレットは配られましたけど(笑)
講演でも懇親会でも笑いと気さくなおしゃべりが溢れていて、ビクターが心を込めてこのイベントのセッティングをしていることを感じさせられるのです。
「ビデオを使って多くの人が作品を撮れるように協力したいだけ」
と社員さんはおっしゃってました。
これこそ本当のCSRってやつですね。きっと。
●“市民ビデオ”ってそれだけなのか?
ここからは、市民ビデオフォーラムで言われていたことではなくて、個人的な感想について。
これは私事なんですが、
わたしも情報学環の授業でドキュメンタリー番組を作ったことがあるんです。
就職が決まったら、学生時代のうちにもう1本か2本、撮ってみたいなとも思ってます。
でも、わたしが“市民ビデオ”を撮る意味って何なんだろう。
フォーラムの話を聞いていて、考え込んでしまいました。
わたしはお金にも病気にも困っていないような大学生です。銃社会を生きるゲットーの若者と違って、「身近な問題」と言って思い浮かぶもの、特に無いんですよ。
うちの大学の日常を撮るだけでも、“面白い”番組になるのかもしれません。(よくAERAでT大特集やってるくらいだから、T大の実情というだけで評判になるに違いないと思う…^-^;)
そして確かに、「日常を描いた作品に人間らしさが描かれていること」「身近な小さなニュースから大きな社会の問題点を描くこと」が市民ビデオの意義なのかもしれません。
けど、当人にとって身近ではない社会問題を撮って作品にしている学生って、少なからずいるんですよ。
同い年の学生さんがルワンダを訪れて内戦の爪痕を撮ったドキュメンタリー作品を見たことがあります。
されこうべが無造作に置かれた部屋、子どもの笑顔、なんとはなしに心に残っています。
ルワンダの話は彼女にとっての日常ではなかっただろうけど、
あれが「人間らしさ」を描いていないなんて言えないような気がします。
自分の普段の生活から生まれた問題意識を出発点に“市民ビデオ”を撮る人がいる一方で、
身近ではなくても何かに問題意識を持って取材に出向き、“市民ビデオ”を撮る人がいます。
後者のタイプの“市民ビデオ”の持つ意義って、何なんだろうなと考えています。
わたしがドキュメンタリーを撮るとしたら、どんなことができるんだろうって。
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ということで、
ビデオを撮るのが好きな人は、是非行ってみてください(^0^)/ かなり頻繁にイベントが行なわれているようです。