恥ずかしながら、最近初めて知った言葉なのですが(>_<)
最近知り合った人が「写真はやっぱり銀塩写真だ」って言っていて。
フィルムを使って撮った写真のことを銀塩写真って言うんですね。なんだか、味のある言葉。
自分はデジカメでしか写真を撮らないのですが(最近はほとんどの人がそうですよね?)、
Coccoさんが絶対的にフィルムカメラ派なので、フィルムのどこがいいんだろう……って、前々から気にかかってました。
今日はたまたま六本木へ行く用事があり、そのついでにふらっと、東京ミッドタウンのフジフィルム・スクエアに行ってみました。
そこでやってたのが、熊野古道の写真展。
ふらっと行ってみただけなんですが、わたしは心を奪われました。
これこそプロの作品なんだ! これが銀塩写真なんだ!
と。
ひとつは大きさの問題。
撮影に使われたカメラが展示されてあったんですが、古くてとても大きなカメラでした。フィルムも普通より大きなものを使っていたようです。(リンク先のページでも見られるので、ぜひ見てみてください)
展示されていた写真のなかには非常に大きいもの(2mくらいのもあったんじゃないかな…)もあったのですが、普通のデジカメの解像度ではおそらく、あんな大きさには引き伸ばすことができないのでしょう。
もうひとつは、色の問題。
繊細なグラデーションや、極彩色。
わたしはデジカメでよく写真を撮りますが、一度として“見たまま”の色を撮影できたと思うことがありません。(もちろん、パソコン上で簡単に色調補正ができますけどね。)
でも、
あの熊野の写真たちは、写真家の“見たまま”の景色を息づかせているように感じられました。それほど鮮やかな色の写真だったんです。
もちろんフィルム写真だって、現像のときに手を加えれば色調が変わります。そんなことは知っているはずなのに――それにもかかわらず、写真は現実を完全に映しているだなんていうお話を、手放しに信じてしまいそうになるほどの。
そして、被写体の問題。
夕日が鳥居の間をくぐる一瞬、火祭りで人々の持つ松明が山を駆け下りていく一瞬。
大きなカメラを使って、
美しい一瞬一瞬を待ち続けて待ち構えて、
やっと撮れた一枚なんだろうなと
どの写真も思わせてくるのです。
さっき書き上げた市民ビデオフォーラムのときにも、プロとアマの違いということは意識されていました(写真じゃなくてビデオ・ジャーナリズムについての話題ですがね)。
そして、あのフォーラムではプロを批判する視点のほうが強かったと思います。
写真とか、ビデオとか、報道とか、
“プロ”ではない人でもできる類のものは、色々とあります。アートはプロだけのものじゃない、ジャーナリズムはプロだけのものじゃない、みたいなことは最近よく言われています。
わたしも、特にジャーナリズム・報道に関しては、もうちょっとプロ以外の人もやってみるべきなんじゃないの、と思っている次第なんですが・・・
なんですが、
「いや、やっぱりその道のプロにしかできないこともあるのかも」
って、思いました。さすがに今日は。