逆説的かもしれないのだけど、
自分のアイデンティティは、自分が根無し草であることにあるような気がする。
故郷はどこかと聞かれたら「東京」と答えるしかないのだけど、
でも東京が故郷という感覚はどうしても持てない。
(とはいえ故国は「日本」だろうなと思う。海外に行くことになったら、わたしは根無し草ではなく、「日本人」というアイデンティティを確実に持てる。日本語使いだし、日本の歴史を学んだし、日本文化に愛着があるし…)
小学校まで東京の郊外に住んでいて、私立の中高一貫校に入学したのと同時期に都心に引越し、大学入学後に都心の別の区に引越し、というのがこれまでの自分の経緯。
小学生時代は公立小学校に通っていたこともあって近所づきあいや子供会の活動もあったけれど、その頃の知り合いとは、今は全く接点が無い。
中学校以降は、近所の人とは一切会話をしたことがない。会話がなくてもやっていける。典型的なニューカマー。
<!--故郷を持てないのは子ども時代をすごした街を出たからなのかとも思うけれど。
ただ、親御さんが転勤を繰り返していて何度も住む場所が変わったという人でも、どこかしらに愛着を持っていることがある。同窓会に出ていたり、あの街が好きだったんだと言っていたり。
引越しは必ずしもその土地への愛着を失わせない。
引越しとは別に、その地域に愛着を持てなくなってしまった理由がわたしにあるのだろう。>
そんな根無し草だからこそ、気にかかることが生まれた。
ひとつめは、故郷に愛着を持っている人について。
ふたつめは、ニューカマーの住民が多い東京という場所で、ニューカマーが本当に地域に根付かなくて良いのか。地震が起きたらどうするんだ? いつか結婚して子育てをするとして、ご近所づきあいがなくて大丈夫なのだろうか?
そしてもうひとつは、コミュニティを育てていくにはどうすればよかったのか。
ひとつめについて詳しく書いてみると。
国立大学に来て、いろんな地方から上京してきた同級生と会って、
その人たちが自分のふるさとについて持っている愛着に触れたとき、とても奇妙だった。
一番心引かれるものがあったのは、自分の住んでいた県にとても強い故郷愛を持っていて、それを常日頃から公言しているサークルの友人。将来はその県の未来のために政治をやりたいと彼は言っているのだけれど、なぜそんなにもその県に真剣なのか、気になって気になって聞いた。
そして、日本ではいくつも限界集落が消えていることや、自分たちの住む街の生活が明日よりよいものになっているという確証がないという人たちがいることを教えてもらった。
"地方"に関して完全に無知な東京人だった頃とは、今のわたしは違ってしまった。それでも、彼が自分の故郷の県に抱いている危機感や焦燥感を、まだうまく理解できないでいる。
法学部のゼミで福井県の知事や職員さんとお会いして福井県の未来を語るという機会があったけれど、そのときも地方の人との感覚の違いを感じた。知事は底抜けに前向きに県の魅力を訴えているのに(暮らしやすい街、三世代同居が続く街)、学生だけでする議論はなぜか後ろ向きになる(財源がない・車がなければ動けない不便・若者は留められないetc)。そして、職員さんの危機感。
わけがわからない。
"地方"の人たちが毎日どんな不安を抱えて生きているのかという実感も、地方と大都市の格差が生じた背景や解決を難しくする要因といった構造も。
わからない。
わからないから知りたい。
知らなければいけない気がすると想った。曲がりなりにも法律だとか政治だとか学んでいる身である以上は、知らないでは済まされないのだと想う。なんだか理屈じゃないくらいに強く。
(でも、なぜ? なぜ東京人のわたしが?)
3つめについても少しだけ書いておくと。
なんでコミュニティの育て方について感心を持つのかと言えば、根無し草の自分が唯一「故郷」だと思えてたコミュニティが簡単に壊れてしまったからだ。
みんなが居心地のいい場所であり続けられるために、どんな存在意義を見出せた? 運営する側でどんな策をとればよかった? どうすれば参加している人に一緒に考えてもらえた?
あんなに脆かったのは、ネット上のコミュニティだったから、なのだろうけど(人が住んでいるわけじゃない、必要に迫られていない、実体のない、場所ともいえない場所だった)。
けれど、実体のある街でも似た脆さがあるような気がする、だって、人のつながりであることは変わらない。制度やシステムを作って、人がそれを動かしていくものであることは、変わらない。
地域コミュニティの崩壊が問題だ言われている。
もしも地域コミュニティを再生しなければならないのだとしたら(まずその必要性があるのかも考えないといけないと思うけれど)、
その方法を学びたい。