『<子ども>のための哲学』 講談社現代新書 著:永井 均
という本を読みました。「なぜぼくは存在するのか」「なぜ悪いことをしてはいけないのか」のふたつの問いを考えている本です。
ちなみに、買ったのは、確か高3、受験生になってしまった頃だったと思います(^-^;
反芻しながら読むのに時間がかかったのかなと思います。
なぜなら、
"わたしたちがもし、自分固有の考えるべき問題を持ってしまっているなら、(他の人が当たり前だと思っている世界に上げ底を見つけてしまったなら、)それを考えぬいてほしい"
ということを筆者は繰り返し説いているのです。哲学の答えを教えてくれる本ではなく、「自分で哲学しろ!」という本だったわけです。
いわゆる哲学者たちも、みんな自分固有の問題から哲学を始めているのだそうです。わたしたちが高校の倫理の時間に教えられるような「哲学」は、哲学者の思考の成果である「思想」でしかないのだそうです。
そう考えると、一冊でも哲学者の書いた原著をそのまま読んでみようっていう気になってきました(>_<) 思想じゃなくて、哲学の思考のプロセスを辿ってみたいのです! 自分が哲学をするために。
わたしにも、小さい頃から考えてしまう問題が、あります。
「この世界は自分の見ているお芝居で、他の人は心なんて無いんじゃないか」「どうして他人のためにいいことをしなければいけないのだろう」なんて。
馬鹿げた問いだって言われてしまうことは、なぜか小さな頃もわかっていて、この問いを突き詰めて考えることはいつの間にか止めてしまったけれど。
でも、また問い直せてよかったですよ。そして、今度こそ徹底的に考えぬこうと思うのです。
「子どもに何かを教える」という立場にいる大人が世の中にはたくさんいるわけです。彼らは、「他人の助けになりなさい、いいことをしなさい、それが自分のためにもなるんですよ」なんて教えてるわけじゃないですか。当然だと思われてるわけじゃないですか。そして、わたしもまた、自分に対していつもはそのように言い聞かせてるわけですが…。
"どうしてわたしは他人の助けになりたいと思うんだろう、どうして社会はそれをわたしに求めるんだろう。"
その問いを解決しないままに大人になるのは、たぶんあまりにも危険だと思いました。いつか、「当たり前だ」という言葉で押し隠していたもやもやが溢れて、壊れてしまうかもしれないという危険です。
そんな危険を持っているのは、わたしだけじゃ、ないのでは。
(※蛇足ですが、この本の「なぜぼくは存在するのか」っていう問いの言葉の選び方は良くないのでは。この言葉からは、「どんな目的のために神はぼくを造ったのか」など、生きる意味とか目的を問う哲学かと勘違いする人がいそうです。)