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Pokémon GOのAR写真とか。アニメの感想とか。たまに難しいことも。不思議ちゃんの新婚生活13年目@東京をまったり記録。

【ネタバレ注意】『誰も知らない』感想

2年前の映画になぜ今になって手を出したかといえば、Coccoの新曲『陽の照りながら雨の降る』のPVを作っていたのが『誰も知らない』の是枝監督だったから…です。ミーハーで恥ずかしいでーす☆彡

あとは、放送論の授業で是枝監督の処女作のドキュメンタリー『しかし・・・福祉切り捨ての時代に』を見させていただいたのもきっかけです。このテレビ番組も素晴らしいドキュメンタリーだとは思ったのですが。うちのリビングのテレビで流れていれば、授業で見たときのようにじっと息を詰めてストーリーを追って見ることはできない気がします。シリアスな番組をじっくり見るのは、なかなか家庭では難しいのではないでしょうか。

というわけで映画そのものの感想を。

映画を見る前に公式ホームページをチェックしたら、というコーナーで、こういった詩がトップに載っていました。

生れてきて限りない青空にみつめられたから

きみたちは生きる

生れてきて手をつなぐことを覚えたから

きみたちは寄り添う

生れてきて失うことを知ったから

それでも明日はあると知ったから

きみたちは誰も知らない自分を生きる

               谷川俊太郎

この詩を見て、わたしは違和感を覚えました。映画のあらすじをなんとなく知っていたからです。

育児放棄の話なんでしょう、登場人物の子どもがひとり死んでしまうんでしょう、結末も救いがないって聞いたのに…… 育児放棄した母親や社会を責めているわけでもないこんな能天気な詩を、なんでこの映画に寄せて書くんだ、と思ったのです。

でも、映画を全部見終わった後に結局感じたことは、この詩が映画に寄せて書かれたのは間違っていないということでした。

主人公の子どもたちもその母親(YOUさん)も自然に演じているうえに、BGMが限られた場面でしか流れず、生活音がリアルなのです。だから、まるでドキュメンタリーを見ているような気分にさせられました。

そして、母親が出て行ってしまって、次第にお金が底をついて、と子どもたちの状況が悲惨になってきても、決してそれを悲惨には描いていないのです。

どんな状況にあったとしても、各人の限界さえ超えなければ、人間の心情は確かに自然に動いていくものだと思います。ピアノが鳴らなくなったら悲しいし、公園で遊べば楽しいし、と。

そういう緩やかで自然な普通の心の動きを丁寧に描いているように感じました。

子どもたちは、悲劇的な状況に翻弄されているのではなく、生きて、寄りそって、誰も知らない自分を生きているのです(少なくともこの映画での描かれ方では)。

親が子どもにとって絶対的な存在だということは頭では理解しています。親の存在が非常に大きなものだからこそ、育児放棄の恐ろしさを広範に想像することが難しいというだけにすぎないのかもしれません。

でも、男が母親を捨てたり、友達が「俺たち友達だろ」って言って万引きを勧めたり、警察や福祉事務所が動けば子どもたちが4人で肩を寄せ合って生活できなくなったり、中学生の女の子たちが葬式ごっこのいじめをしたり、……そういうことだって、よっぽど怖いと思うんです。

ひとが困ったり傷ついたりしてしまうことに対する想像力が欠けていること(或いは、想像できていても無視してしまうこと?)はどれも同じじゃないですか。子どもだって大人だって同じように残酷です。

この映画にもし糾弾しているものがあるとすれば、それは育児放棄よりもっと広い、思いやりを失ってしまうこと全てではありませんか。

(だから、わたしはこの映画を見続けているのがとても怖くなってしまいました。自分もまた誰かを傷つけているのですから。映画のとりとめないワンシーンのように自然に、知らない誰かを。)

(最後に、映画の内容とは関係ないんですが。

「生れてきて失うことを知ったから 誰も知らない自分を生きる」

というフレーズから、

「幸福な家庭はどれもみな同じようなものであるが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」

というトルストイの言葉を思い出しました。

人間は、生まれてからいつか"失うこと"を知って、悲しみを抱きます。

不幸や悲しみは個別的なもので、幸福ほど簡単に共有できません。だから、"不幸な家庭はそれぞれに不幸"なのです。

そして、悲しみは個別的なものだから、悲しみを抱いたことで"誰も知らない自分を生きる"ことになるのでしょう。

この映画の中では、登場人物たちが考えていることって推し量ることしかできないんですよね…。まさに、誰も知らない、知りえない。感情を殊更に表現するような演技をしていないのでしょうね。)